この川田龍吉を祖父に持つ、川田雄基は幼い頃からケンブリッジ大学出身の家庭教師のもとで英語とイギリス文化を学んだ。学習院では日本文学や映画に没頭し、三島由紀夫をインタビューしたこともある。日本と世界の歴史と文化に通じ、商社マンとして世界各国での生活経験を持つ、稀有な人材だったのだ。
そんな高い教養を持つ川田も国際ビジネスの最前線である商社という職場においては持ち前の能力を発揮し切れていなかったようだ。昭和50年代後半に川田の上司を務めていた人物に河村幹夫がいる。
河村は昭和33(1958)年に一橋大学を卒業した後、国内勤務を経て、ニューヨーク、モントリオール、ロンドンなどで足掛け約20年にわたり海外での勤務を経験した。ロンドンから帰国した昭和50年代半ばには、新たに設置された情報関連の事業部長に抜擢された。そのときに、別の部署の部長から川田のトレードを打診されたのである。河村は当時の状況をこう振り返る。
「川田君が華族の末裔であり、高い教養を持った人物であることは噂に聞いていました。しかし、商社のビジネスは切った張ったの泥臭いもの。性格が優しい川田君には肌に合わなかったのか、営業成績はあまりよくなかったようです。それでも、社員のよい面を引き出すのも会社の役割だと考えていた僕は、川田君を引き受けることにしました」
佐野隆治が川田の存在を知ったのは、川田が河村の直属の部下になった数年後のことである。福島の国際研修施設は基本設計が完了し、基礎工事も始まっていた。一刻も早く、この施設に文化を根づかせてくれる日本人館長を探さなければならない。人づてに「三菱商事に川田雄基というイギリス文化に造詣の深い人物がいる」と聞いた佐野は、早速、面会を申し込んだ。
東京・神田の佐野学園を訪れた川田は、事務所の机に広げられた設計図と模型に舌を巻いた。だが、それでも半信半疑で「日本でこんな施設をつくれるわけない」と思っていたという。その心の内を見抜くように、佐野は、「川田さん、ぜひ現場を見てください」と言ったのである。