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50th Anniversary -Interviews-
大正製薬を辞めた後は、今で言うフリーターでしたね。営業で、色んな薬屋さんを回っていたときに、とても気に入ってくれた方がいて、「そうか、辞めたか。次のことが決まるまで、うちを手伝っていればいい」と言ってくれたのです。倉庫があって、そこの荷物の管理を任されて、倉庫の片隅にあった部屋で寝泊まりしてもいいと言ってくれたんです。
そんな気楽な暮らしを続けていたときに、結婚することになりました。僕が営業をしていたときに、薬局で化粧品の販売をしていた女性です。結婚して、でもまだ倉庫の仕事をしていたときのこと。長女も授かって、そろそろ本腰を入れて仕事を見つけなくちゃならん、と思っていた矢先に、妻が「あなたは教育関係に興味がある、っておっしゃっていたから、これはどうかしら?」と新聞の切り抜きを見せてくれたんです。それが神田外語学院の職員募集の広告でした。
履歴書を書き終わった後、「なんでこの年齢になって応募するのか、その動機を書きなさい」と妻が言うんです。僕はなるほど、と思い、手紙を書いて、履歴書と一緒に投函しました。すると、ほどなくして連絡があり、神田に面接に来てください、と言われたんです。
当時の神田は小さな飲食店が軒を連ねる飲屋街でした。大手町の会社で働くサラリーマンたちが、仕事が終わると神田に繰り出し、一杯やっていい気分になって、神田駅から帰るわけです。呑み屋と寿司屋が多かった。とにかく小さなお店がひしめき合っていた。サラリーマンの心のオアシスっていう感じかな。まぁ、今と変わりませんね。
僕は大分の田舎育ちだったから、学校と言えば広い校庭があるものだと思っていた。でも、神田外語学院に行ってみると、ビルの部屋が教室。驚きましたね。
面接は、佐野公一先生、きく枝先生、そして当時事務長だった隆治会長の3人だったと記憶しています。一通り面接が終わると公一先生は、「きみのことはよく分かった。明日、奥さんを連れてきなさい」と言うんです。
おそらく、後にも先にも、佐野学園の職員で「女房面接」があったのは僕だけでしょうね。公一先生ときく枝先生は、妻に面接をして、そして「家庭を大切にしなさい」と指導してくださったようです。公一先生は、本名を「和一」といいます。だからこそ、家庭の「和」が一番大切だという信念をお持ちだったのだと思いますよ。とにかく、無事、就職できました。でも、思い出してみると、妻のおかげですね(笑)。(2/10)