神田外語グループのいしずえを築いてきた人々

第13回 佐藤武揚学校法人佐野学園元理事『専門学校の可能性を追求し続けて』

昭和32(1957)年、佐野公一先生、きく枝先生によって設立された「セントラル英会話学校」は、その後、日本最大の外国語専門学校「神田外語学院」へと成長していきます。その成長を支えたのは、英語教育と職業教育を結合したかつてないカリキュラムでした。今回は、神田外語学院の運営に永年携わってきた佐野学園元理事の佐藤武揚氏にインタビューし、時代のニーズに応えながら新しい教育を提案してきた学院の変遷と専門学校から大学への編入を実現した経緯などについてお聞きしました。

神田外語グループの創業者、佐野公一先生は昭和32(1957)年に、神田駅の北口にあった「千代田予備校」を買われて、「セントラル英会話学校」を始めたと聞いています。昭和38(1963)年10月には、「セントラル米英語学院」を設立し、翌年の昭和39(1964)年1月には「神田外語学院」へと名称を変更しました。学院では、外国人教員をたくさん採用して、生きた英語を学ぶことを売りに学生募集を図ったようです。

昭和39(1964)年の東京オリンピックを境に、「仕事で使える英語」というものが急に求められるようになりましたね。神田外語学院の戦略は見事に当たって、社会人がたくさん入学したといいます。そして、さらに学校を大きくしようと、現在の1号館の建設の計画が始まるわけです。僕が学院に就職したのは、このタイミングでした。昭和43(1968)年の5月のことです。

僕は昭和14(1939)年に大分県玖珠郡九重町に生まれました。標高800mの山間にある農村です。両親は農業を営み、兄弟は11人です。小さい頃はとにかくやんちゃで、いたずらばっかりしてましたよ。よく、怒られましたね。田畑を駆け巡って遊びました。兄弟では下から2番目で、男の子では末っ子だから甘やかされて育ちました。だから、東京の大学に行くこともできた。明治大学政治経済学部に入ったのは昭和35(1960)年4月。昭和39(1964)年3月に卒業すると、大正製薬に入社しました。

仕事は営業です。昭和37(1962)年に発売された「リポビタンD」が大ヒットしていた時代です。滝野川(北区)や池袋(豊島区)が担当でしたね。当時はエリアでトップの成績をあげると背広がもらえた。1年目、そして2年目もいただきましたよ。でも、2年で辞めました。当時、大正製薬は全国に製品を売っていたんですが、事業所は東京にしかない。地方の営業になると、ずっと旅館ぐらしですよ。町から町へと、薬局や卸問屋を回りながら、1カ月は東京に帰ってこれない。まさに、「薬売り」です。そんなのおかしい、と思って、社長宛の辞表を書いて、すっぱりと辞めました。

母は喜びましたね。母は、僕に教師になってほしかったんですよ。だから製薬会社を辞めたのは喜んでくれたし、僕も教育関係に進んでもいいかなって思うようになっていきました。(1/10)

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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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