神田外語グループのいしずえを築いてきた人々

第13回 佐藤武揚学校法人佐野学園元理事『専門学校の可能性を追求し続けて』

公一先生は先見の明がある方でしたから、
ビジネス英語の必要性を強く直観されていた

神田外語学院で働き出したのは、昭和43(1968)年の5月のことです。2年後の昭和45(1970)年4月には新しい校舎が建つ予定になっていました。僕が任されたのは学生募集のパンフレットです。学校のことを色々と調べて、パンフレットの構成を考えて、ようやく見本まで作り上げてから、佐野公一先生のところに持っていきました。すると公一先生は、パラパラと眺めてゴミ箱に捨ててしまいました。

そのときは唖然としましたが、今になって思えば、僕は的外れなことをしていたんです。当時、学院には大学受験クラスというのもあって、僕は予備校としての特徴に比重を置いたパンフレットを作ろうとしていたんです。でも、公一先生が求めていたのは、英語学校としてのパンフレットだったんです。

ただ、そのパンフレットを作るためには、やらなくちゃいけないことが山のようにありましたね。2年後の昭和45年に完成する1号館は地上7階、地下1階のビルです。ひと学年800人の学生を収容できる大きなビルです。それまで、神田駅北口にあった校舎では、学生数は昼と夜を合わせても100人ていどです。つまり、これまでの8倍の学生を集めなくちゃならない。新しい校舎ができても、一杯にならなければ、どこかに貸さなくちゃなりませんからね。

それも、英語教育だけでです。当時の学院にあった英語のクラスは「英文秘書科」と「実務英語科」だけです。佐野公一先生ときく枝先生は、戦後まもなく貿易業を営んでいた時期があって、そのときに「あぁ、これからの若者には仕事で使える英語が必要だな」と思われたようです。公一先生は先見の明がある方でしたから、今で言うビジネス英語の必要性を強く直観されていたのだと思いますよ。この2クラスには、すでに会社で仕事をしている社会人が主に来ていました。

大学受験クラスは確かに儲ります。学校としては収入の柱になりますよ。でも、公一先生は英語の教育に専念することを決めてらっしゃっていた。予備校は大学に合格させておしまいです。それよりも、英語力を身につけて、なおかつ国際コミュニケーションのできる人材を育てて世の中に送り出すことのほうが大切だと思われていたのでしょう。

でも、「英文秘書科」と「実務英語科」の2クラスだけでは800人は集まりません。どういう学科を作れば、学生たちは来てくれるのか? パンフレットを作るよりも、まずはそちらを考えるほうが先決でした。(3/10)

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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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