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50th Anniversary -Interviews-
当時の佐野学園の職員たちのチームワークを表すエピソードがある。
大学の設置申請書類で最も重要視されるのは開学後に就任する教員のリストである。設置申請では就任予定者の意思を事前に確認するために、「離職許可」を添付しなければならない。勤めている大学の理事長や学長が離職を許可することに同意した文書だ。山本和男は当初、離職許可は設置認可(昭和61(1986)年12月)の1年前までに用意すればよいと文部省の担当官に言われていた。つまり昭和60(1985)年12月までにである。
しかし、昭和60年7月の第一次申請の打ち合わせで文部省を訪れたときに、担当官は山本に、「明後日までに教員の離職許可と住民票を持って来てください」と告げた。半年以上も提出が前倒しになり言葉を失っている山本に、担当官は「では、もう1日あげるので3日間で用意してください」と言った。
神田に戻った山本和男は佐野隆治に文部省の要求を報告した。すると、佐野は即決し、「よし、集めよう」と号令をかけた。学院のあらゆる部門から職員を集め、担当する就任予定者を割り当て、各大学に派遣した。頭数が足らず、大学の校舎建設のために出入りしていた建設会社の社員にも協力を要請した。そして、3日後には、教員全員分の書類を揃えてしまったのである。
「チームワークは大学設置準備室だけはなかった。我々のほかにも、文部省に挑んでいた職員がいた」と山本和男は述懐する。大学設置を担当する文部省の窓口はふたつある。ひとつは、設置準備室が挑んでいた高等教育局の大学設置室。もうひとつは同局の「私学部」である。私学部は申請する学校法人に大学を設置できるだけの財務能力があるかを審査する部署である。
専修学校としての神田外語学院は膨大な数の学生数を抱え、大学を新設するうえでの資金は充分にあった。しかし、教育基本法第一条が定める大学を持つには、文部省が認める財務システムを備えていなければならない。
私学部への申請は、法人本部長を務めていた石谷多嘉司をリーダーとする経理チームが担った。メンバーは金子貞夫、坂本充江といった職員たち。石谷らは、学院本館の地下の倉庫からホコリまみれになりながら領収書や帳簿を引き出し、一つひとつを整理していった。
新しい大学の設置を望んでいない文部省の目は通常よりも厳しかったことだろう。石谷たちは文部省が大学設置に値すると認める「一点の曇りもない」財務管理の体制を作り上げていったのである。(12/13)