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50th Anniversary -Interviews-
昭和55(1980)年度末まで、文部省は東京周辺などの大都市圏では新しい大学の設立を認めていなかったのである。佐野学園が文部省を訪れた昭和57(1982)年も、大都市での大学新設を容易に認めない基本方針は変わっていなかった。佐野学園が千葉の幕張という首都圏内に大学を新設する唯一の方法は、文部省に「この大学は『特に必要と認める』」と言わしめることだった。
だが、神田外語学院が培ってきた「コミュニケーションを主体とした英語教育」は、大学設置の認可を得る切り札にはなりえなかった。戦後、文部省は「読む・書く」を主体とする英語教育を推進してきた。その文部省が神田外語学院の「話す・聞く」能力を養う教育を「特に必要なもの」と認めてしまうと、国の英語教育の方針そのものを否定することになってしまうのだ。
外国語大学という枠のなかで、文部省が「特に必要と認める」ものとは何か?設置準備室のメンバーたちはあることに気づいた。
当時、朝鮮半島の言語を教えていたのは3大学3学科であった。東京外国語大学と大阪外国語大学の「朝鮮語学科」、そして天理大学の「朝鮮学科」だ。
第二次大戦後の東西冷戦、そして朝鮮戦争によって、朝鮮半島は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)に分断された。隣国であり、南北両国の人々が多く暮らす日本では、政治的に繊細な問題をはらむゆえに、その言語の呼び名にも非常に慎重にならなければならなかった。前述の3大学は「朝鮮」という半島全体の呼び名を学科名に採用する一方で、NHK の語学講座は「ハングル」という朝鮮文字の呼称を用いて「ハングル講座」としていた。
つまり、日本との国交もある「韓国」の国名を使った「韓国語」を学科名として掲げている大学はなかったのである。「韓国語学科」であれば、文部省が「特に必要と認める」ものとなりうる。設置準備室はそこに着眼したのだ。
設置準備室の山本和男は、韓国大使館はもちろんのこと、韓国の高麗大学や延世大学にも赴き、韓国語学科設置の意思を伝えた。どの機関でも大歓迎だった。教員に関しては、小川芳男が東京外国大学の朝鮮語科長をしていた菅野裕臣に依頼し、初代の韓国語学科長の金東俊をはじめとする教員陣を集めた。
神田外語大学設置準備室は、文部省が「特に必要と認める」ための切り札を1枚手に入れたのである。(5/13)