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50th Anniversary -Interviews-
昭和57(1982)年4月、佐野学園は「大学設置準備室」を設けた。オフィスは、佐野隆治が大学設立の企画を温め続けてきた電建ビルの一室である。メンバーには、学院の教務課長を務めていた山本和男、総務課の北原賢三(現・神田外語大学キャリア教育センター長)、そして後になって教務課の久保谷富美男(現・佐野学園教育事業部長)が選ばれた。そして、膨大な事務作業をサポートする数名の女性職員たちがいた。指揮を執るのは佐野隆治であった。
佐野と山本はまず、文部省へ挨拶に行くことにした。大学設置申請の担当部局は、高等教育局の大学設置室である。神田外語学院の顧問であり、新大学では学長への就任を要請していた小川芳男に同行を依頼した。小川は東京外国語大学の学長を2期務め、中央教育審議会の委員を務めた英語教育界の重鎮である。
3人を迎えた大学設置室の担当官は冷たく言った。
「文部省は、国の方針として、例外を除き、大学の新設は認めていません。神田外語さんは財政も豊かだし、専修学校としてしっかりとおやりになっている。だから大学なんて面倒なものを創らなくてもいいでしょう。専修学校としてやれることを自由におやりになればいいでしょう」
まったくの門前払いである。
担当官が佐野学園の大学設置を拒絶したのには理由があった。戦後、日本国内では大学の新設や学部の増設により、大学入学者が増加していた。その数は、昭和35(1960)年の16万人から、昭和46(1971)年の36万人へと2倍以上に増加していた。だが、大学の整備は計画的なものではなく、地域的な格差や学部の偏りが顕著だった。
昭和47(1972)年に招集された高等教育懇談会の報告に基づき、文部省は昭和51(1976)年から61(1986)年までを前期・後期に分けながら、高等教育を計画的に整備していくことを決めた。昭和55(1980)年までの前期の計画概要では、「大都市における大学等の新増設は原則として認めないこととする(後略)」と定めた。さらに、「昭和56年3月31日までの間は、私立大学の新増設等の認可は、特に必要と認める場合を除き、行わないこととされた。」のである(※2)。(4/13)