神田外語グループのいしずえを築いてきた人々

第12回 山本和男神田外語大学元学監『大学設置という重い扉を開け放つ』

逝去の直前に幕張の埋め立て地を視察した佐野公一
「千葉港、成田空港、文化は海の岸辺から始まる」

佐野隆治は、かなり早い段階から大学設立に向けて動き出していた。

昭和51(1976)年から52(1977)年頃のことだ。神田外語学院の夜間部に配属されていた山本和男はある日、佐野隆治に声をかけられた。学院の本館から数ブロック離れた「電建ビル」の一室に来るよう指示をされたのだ。佐野は山本に言った。

「ビルに入るのを誰にも見られるな」

山本が電建ビルの指定された部屋に行ってみると、そこでは会議が行われていた。集まっていたのは、国立や私立の大学の教員たちだった。佐野は、彼らから大学という組織に関する情報を収集するとともに、大学づくりに向けた教員集めのネットワークづくりを行っていたのである。

このプロジェクトはあくまで秘密裡なものだった。一説によると、理事長である佐野公一さえこの部屋の存在は知らなかったという。山本和男はこう振り返る。

「職員は誰もその部屋の存在を知りませんでしたよ。大学を設立する計画が外部に漏れると、他の専修学校や文部省からどんな横ヤリが入るか分かりませんからね。僕も何か特別な業務をするわけでもなく、会議に参加して先生方の話を聞いていただけです。おそらく佐野隆治さんは僕にその場の空気を感じさせたかったのでしょう」

昭和53(1978)年、千葉県が幕張の埋め立て地に教育機関の招致する方針を決めたという情報が佐野学園のもとに入った。10月3日、理事長である佐野公一が現地へ視察に赴いた。一面にアシの茂る湿地帯。後に幕張新都心と呼ばれるエリアだが、当時は京葉線すら開通していなかった。現地を視察した佐野公一は、何かを感じ、「ここに大学を建てるんだ」と断言したという。

佐野公一は、この視察の最中に倒れ、救急車で病院に搬送された。妻の佐野きく枝は公一の意思を受け、千葉県に対して幕張の埋め立て地の利用を申請する。申請の第1号だった。10月18日、公一は逝去した。享年73歳だった。公一は、きく枝に「千葉港、成田空港、文化は海の岸辺から始まる」という言葉を残していったという。

昭和54(1979)年8月、佐野学園は外国語大学設立の構想案を策定する。いよいよ本格的に大学の設置準備が始まっていくのである。(3/13)

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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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