神田外語グループのいしずえを築いてきた人々

第12回 山本和男神田外語大学元学監『大学設置という重い扉を開け放つ』

新大学が目指す教育を体現する学問、
「異文化コミュニケーション」との出会い

神田外語学院は、コミュニケーション主体の英語教育を実践していた。日本の文化観をしっかりと持ちながら、外国人の文化背景も理解し、高い語学力を駆使してコミュニケーションができる人財を育てる。大学設置準備室のメンバーたちは、佐野学園が目指す教育そのものを、新しい大学設置の認可を得るための特筆すべき教育として文部省に認めてもらえないかと考えていた。

設置準備室の活動も2年目に入った昭和58(1983)年、佐野隆治は「異文化コミュニケーション」という言葉に出会った。今でこそ一般に浸透しているが、当時はごく一部の人々が知る最先端の用語だった。佐野は日本国内で異文化コミュニケーションの専門家を探すよう設置準備室の山本和男に指示した。関係者に手当たり次第当たっていった山本が辿り着いたのは、講談社インターナショナルという出版社の編集者、古田暁であった。

昭和4(1929)年にアメリカで生まれた古田暁は、カソリック大学において中世神学の博士号を取得し、バチカンにも留学したほどの研究者であった。当時は日本で働いており、『Encyclopedia of Japan(英文日本大百科事典)の編纂責任者を務めていた。世界中の研究者と議論を交わしながら百科事典を編纂する作業のなかで、古田は異文化コミュニケーションという新しい学問の必要性を強く感じていた。佐野隆治は、すぐさま古田に新設する大学への参画を要請した。古田もこれに応え、昭和59(1984)年5月に設立された佐野学園附属の異文化コミュニケーション研究所の所長に就任した。

古田暁が大学の設置準備に参画したことで、内容の深い一般教育を実現する準備が大きく前進した。古田は神学研究者として日本国内のキリスト教系大学の教員から高い評価と信頼を得ていた。さらに百科事典の編纂でも編集者として数多くの大学教員と親交を深めていたのである。アメリカのリベラル・アーツに匹敵する一般教育を実現したいと奔走していた設置準備室は、古田暁の人脈を得て、理想の実現へとまた一歩近づいた。

異文化コミュニケーションという学問との出会いにより、佐野学園では新大学の学部を「国際コミュニケーション学部」と名付けようと計画した。だが、文部省の大学設置室はこの案を却下した。「外来語のカタカナで学部学科名を付けた前例がない」「異文化コミュニケーションには学会もなく、日本で学問として認知されていない」ことが理由だった。担当官は、山本たちに「外国語学部であれば設置を認める」と告げたという。

国際コミュニケーション学部という名前は採用されなかった。だが、佐野学園が実現しようとする大学の方向性はまったくぶれなかった。(7/13)

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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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