神田外語グループのいしずえを築いてきた人々

第12回 山本和男神田外語大学元学監『大学設置という重い扉を開け放つ』

一般教育で高い教養を身につけさせ
世界に通じる若者たちを育てたい

昭和50(1975)年6月、学校教育法が改正され、「専修学校」が認められることとなった。いわゆる専修学校法の公布である。昭和51(1976)年1月、神田外語学院は同法の施行とともに、東京都から専修学校としての認可を得た。高等学校を卒業した者が職業のために必要な専門課程を学ぶ「専門学校」としてのスタートを切ったのである。

法律では、専修学校の専門課程を修了した者は大学に編入学できると定めていた。しかし実際には、ほとんどの大学で専門学校の卒業生を受け入れることはなかった。厳しい教育で定評のあった神田外語学院の学生たちのなかには大学への編入を希望する者も多かったが、現実には入学試験を受けて、1年から学び直さなければなかった。充分に高い語学のスキルを習得しているのにも関わらずだ。事務長として、学生たちの声を聞いていた佐野隆治は、大学を設立できないのかと考えるようになっていった。

神田外語学院は、前述した「キフルメソッド」によって英語を中心とする外国語のコミュニケーション能力に長けた人材づくりに成功していた。しかし、学院の創立者である理事長の佐野公一、副学院長の佐野きく枝は、学生たちに外国語を教えるだけでなく、人間性を高めることを重視した。佐野きく枝は生前、インタビューでこのように答えている。

「いくら成績がよくても、もし人間性に欠けるところがあれば誰一人、見向きもしてくれないでしょう。仕事ができるということは、人間性ができている証なのです。一人でできる仕事には限りがあります。周囲の協力があって初めて大きな仕事を進めることができるからです。」(※1)

外国語学校であるにも関わらず、日本文学や華道、茶道といった日本文化を教え、教養を高める授業も取り入れていたのもその考えの表れだと言えるだろう。

大学を創り、実践的な英語とともに高い教養を兼ね備えて外国人と対等に渡り合える若者を育成することは、佐野公一・きく枝夫妻にとって切実な願いであった。そして、40代になったばかりの佐野隆治にとっては、学園の後継者として挑戦に値する大仕事だったのである。(2/13)

  1. 「意欲ある人材を育てる」(『中央公論経営問題will』、中央公論社、昭和57(1982)年11 月号)より。
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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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