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昭和59(1984)年5月、佐野学園では神田外語大学の開学に向け、異文化コミュニケーション研究所を設立しました。当時はまだ認知されていなかった異文化コミュニケーションを啓蒙し、教育と研究の素地を育むための活動を展開していきます。設立間もない研究所に参画した島根大学の大谷みどり教授に「日本初の異文化コミュニケーションの研究所」で過ごした日々についてお聞きしました。
高校生のとき、テレビ番組の『兼高かおる 世界の旅』が大好きで、私も世界中の人々と話から聞ける職業に就ければと漠然と考えていました。外国語を駆使すれば、いろいろな人に出会える。第一志望は大阪外国語大学(※1)でした。でも、一番尊敬していた英語の先生から「女性が仕事をしたいのなら、医者か、教師か、薬剤師」と言われました。大阪の豊中市で育ったのですが、京都の街に憧れていたので、京都大学の薬学部に進学しました。昭和50(1975)年4月のことです。
学生時代、芸術文化社という小さな出版社でアルバイトをしていました。茶道の薫りを漂わせながら、主に伝統工芸士と京都で仕事をしている外国人を紹介する雑誌『グラフィック茶道』の編集を手伝っていました。京都の街や伝統文化を知りたくて、外国人にも会いたい私には願ったり、かなったりの仕事でした。薬学部を卒業しても、製薬会社には就職せずに、そのままこの出版社で働き始めました。
伝統工芸士の方々は、陶芸や装束、染織など、何十年もその道を究めている。取材をお願いしても、人間関係ができていないと受けてくださらない方々が多くいらっしゃいました。誠意を見せようと、工房やお店に足しげく通いました。何度も訪れるうちに、少しずつお話を聞けるようになり、そのうちに「取材してもいいよ」と言っていただけるようになりました。
一方、外国の方への取材では依頼の時点で、「何が聞きたいの? 目的は? どんな雑誌に書くの? アポを取ってから来て」と言われました。とてもロジカルで、ビジネスライク。伝統工芸士の方への取材とはまったく進め方が違いました。
まったく異なるふたつのグループに出会い、価値観の相違に驚かされました。私は「あ、外国語だけでなく、こういった価値観の違いも学びたいんだ」と自分自身の関心に気付いたのです。思えば、それこそが「異文化コミュニケーション」だったのですが、当時はその言葉すらありませんでした。
とにかく飛び込んで、行った先で考えようというのが私の性分です。昭和57(1982)年9月、26歳の私はアメリカに留学をしました。(1/11)