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昭和52(1977)年10月になると、古田はふたたび講談社インターナショナルで働き始める。役職は、”Kodansha Encyclopedia of Japan(『英文日本大百科事典』)”の編集主査である。この百科事典は、日本という国を英文で体系的に紹介するものであり、全9巻、英単語数400万語に及ぶ大著である。執筆する研究者は27カ国、1300名以上。費用はおよそ1500万ドル。出版当時の為替レートで34億円以上である。
編集委員には日米の著名な学者が名を連ね、アメリカ側の委員長は1960年代の駐日大使だったエドウィン・O・ライシャワーが務めた。編集作業には12年間の歳月が費やされた。古田は昭和59(1984)年10月の発行までの最後の5年間に、日米の編集者たちをとりまとめる編集主査として参画した。
”Encyclopedia of Japan”の編集業務を続けながらも、古田は『アンセルムス全集』など中世の神学や哲学に関する翻訳を続け、大学でも教鞭を執った。昭和55(1980)年から56(1981)年にかけては国際基督教大学で非常勤講師として東洋倫理を教えた。同大学では古田と時期を同じくして、エドワード・C・スチュワートというアメリカ人が客員教授として教え始めた。スチュワートは1960年代から70年代にかけてアメリカで新しい学問の分野として生まれた「異文化コミュニケーション(Intercultural Communication)」の領域を開拓してきた研究者であった。古田は大学でスチュワートと出会い、異文化コミュニケーションという学問の存在を知る。
スチュワートの活動は大学内に留まらなかった。当時のことを知る人物に立教大学異文化コミュニケーション学部特任教授の久米昭元がいる。久米は、平成12(2000)年まで神田外語大学で異文化コミュニケーションを教え、後述する異文化コミュニケーション研究所でも副所長を務めていた人物である。久米が留学先のミネソタ大学でスチュワートに出会ったのは昭和52(1977)年に遡る。久米は帰国後、スチュワートの著書”American Cultural Patterns”を『アメリカ人の思考法 文化摩擦とコミュニケーション』(昭和57(1982)年、創元社)として翻訳出版した。スチュワートと縁があった久米は南山大学で教鞭を執っていた昭和58(1983)年ごろにある会合に招かれた。(5/15)