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古田が” Encyclopedia of Japan”の編集業務に追われながらも、異文化コミュニケーションについての研究を続けていた昭和58(1983)年、神田外語学院の事務長である佐野隆治は大学の設置に向けて準備をすすめていた。たが、その道は困難を極めた。当時、文部省は大学の新設を認めないという方針を打ち出していたのである。だが、引き下がるわけにはいかない。
佐野には大学設置にかけるある想いがあった。「日本の文化を理解したうえで、相手の国の文化も理解し、そして自分の意見を伝えられる若者を創りたい」。そのためには従来の外国語教育では不十分だ。そして大学の新設を認めない文部省が首を縦に振る何かが必要だった。佐野は敏感にアンテナを張っていくなかで、「異文化コミュニケーション」という言葉に出会った。佐野はこの分野の専門家を探すよう学院の教務課長の山本和男に指示をした。
山本はこの耳慣れない学問の専門家を探すべく、手当たり次第に関係者を尋ね歩いた。現在、大阪商業大学の教授を務めている鋤柄光明にも会いに行った。アメリカの大学に幅広い人脈を持っていた鋤柄は山本の問いに、「異文化コミュニケーションの日本における専門家は古田暁をおいてほかにはいない」と断言した。山本は講談社インターナショナルで働く古田にコンタクトし、すぐに会いに行った。山本は古田に初めて会った時のことをこう振り返る。
「古田先生は心身ともに疲れきっていました。世界中の学者と渡り合いながら百科事典を作るのはとても辛い作業だったのでしょうね。仕事のなかで異文化コミュニケーションの重要性を痛感されていたようです。先生は異文化コミュニケーションについて話をしてくれました。僕は異文化コミュニケーションについてはまったく知らなかった。でも、先生の話を聞いているうちにどんどん引き込まれていった。すごい人に出会えたと思いましたね」
山本はその日のうちに佐野隆治に古田を会わせる段取りを組んだ。古田に会った佐野は「この人しかいない!」と直観した。古田に大学への参画を要請し、古田もこれを引き受けた。この時期、古田は講談社での仕事のゴールが見えていたが、再就職先が決まっておらず、アメリカに帰ることも考えていた状況だった。佐野学園は間一髪のところで古田と出会えたのである。(7/15)