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「会合にはスチュワート先生の呼びかけで、異文化コミュニケーションの重要性を認識している研究者たちが集まっていました。議論のテーマは今後の日本をどうしていくかというもの。当時は政治もおかしくなり、国際的な問題も起きていた。スチュワート先生は、日本の社会構造のなかに異文化コミュニケーションを組み込んでいかなければと強く想われていました」(久米昭元)
1983年といえば自動車や半導体など、日米貿易摩擦が熾烈さを増していた時期である。『アメリカ人の思考法』の前文を読むと、スチュワートが日本の状況を危惧し、コミュニケーションこそが解決策だと考えていたことが分かる。
「日本の産業界と政府の指導者は、交渉とコミュニケーションにおける望ましいスタイルを育み、海外における日本の利益を効果的に代表し、それに伴って日本文化の意義を伝えていかなければならない。(中略)今後の日本は、明治維新にも匹敵する比類ないコミュニケーション能力の発展を必要としている。」(※3)
久米は、この会合で初めて古田暁に出会った。スチュワートとの出会いを通じて異文化コミュニケーションという学問を知った古田は、日本に異文化コミュニケーションという考え方を広めていくことが重要であると感じていたようだ。会合で古田に出会った久米は、当時の古田の考えをこう説明する。
「戦いのない世界をつくるには、相手の価値観や考え方が全然違っても、最終的には受け入れる必要があります。受け入れてなんとか一緒にうまくやっていくのが、異文化コミュニケーションを成立させる条件です。異文化コミュニケーションという学問は平和学に近い。平和を研究するには戦争の研究をする。我々も(異文化との)誤解や軋轢を調べながら、相手とよい関係性を持つ方法を研究しています。古田先生は日本でもそういう学問が絶対に必要だと感じられていました。異文化コミュニケーションの大学を作らなければいけない、という理想をお持ちだったと思います」(6/15)