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50th Anniversary -Interviews-
戦争が終わり、早稲田大学の教育学部を卒業して、中学校の国語科の教員になりました。
当時はまだ、戦後の混乱期でした。父親が戦地から帰ってこない子なんてざらにいたし、母親が再婚すればそれはそれで家に居づらい。僕は早くに家を建てられたから日曜日になると子どもたちが遊びに来た。昼時になるとご飯をごちそうしなくちゃいけない。でも、うちだって余裕なんてありません。昼前になると父親がすっと家を出て、となり駅の質屋に行って金を用立ててくる。そのお金で、そば屋に寄って出前を頼んで届けさせる。僕は父親がそんなことをしてくれているなんて知らないから、「お前ら食べろ」って、いい気なもんですよ。数十年後に僕が家を建て直したとき、生徒たちが新築祝いを持ってきてくれた。お祝いの品は仏壇ですよ。生徒たちには「僕たちは先生に世話になった覚えはありませんが、お父様には大変お世話になりました」と言われました。子どもは大人よりも物事をしっかりと見ているんですよ。
その後、高校の教員となり、勤めていた高校が全国で初めての高専、工業高等専門学校になりました。もともと、日曜日も自宅で学習塾をやったり予備校で教えていました。働いていた工業高校が高専になったことで僕の立場も国語科の教諭から助教授となり、研究日を週に1日もらえて、平日でも予備校で教えられるようになった。そんな時に、第八中学校時代の恩師である漢文の舞田先生が、神田の予備校で国語を教えることになりました。先生には可愛がられていたから、一緒に教えようと誘っていただきました。その神田の予備校というのが、後の神田外語学院だったんです。学院は最初、予備校としてスタートしたんです。昭和37(1962)年の頃ですね。
最初の頃は、何しろ学生がいなかった。あるとき、ちょっと早く学校に着くとシャッターが開いていない。すると、佐野公一先生がいらっしゃって、鍵を開けてくださった。冬でしたね。寒かった。だるまストーブに火を点けてね。授業が始まる時間になっても生徒は誰も来ない。で、僕は帰りたくなる。神田だから、寄席や芝居に行きたくなっちゃう。そうすると、公一先生は「先生、もう少し待っててやってくれませんか。きっと来ますから」とおっしゃるんです。あの方は顔つきが怖くって、みんな怖がっていたけど、本当は優しかった。そのうち、ようやく学生が来始める。それまでの間、公一先生は僕の話相手になってくださった。その優しさに僕は感動しましたね。(2/11)