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1980 年代の終わりに神田外語学院へ入職し、長年にわたって教育部門の責任者を務めてきた人物 に長谷川貢氏がいます。高校教員としての経験、英語教授法に関する専門的な知識、そして英語 教育への探究心を生かし、35 年にわたり神田外語学院の教育を支えてきた長谷川氏に学院の歩み と進むべき道についてお聞きしました。(構成・文:山口剛/文中敬称略)
昭和 32(1957)年に生まれ、横浜市の金沢文庫で育ちました。父は航空機の部品製造の会社に勤めていました。幼い頃、父の関係でボーイング社から派遣されたアメリカ人技術者の子どもたちと遊ぶ機会がありました。でも、英語が話せないから遊ぶことができない。英語を話せるようになりたいと思った最初の体験でした。
中学校からバドミントンを始め、高校は強豪校の神奈川県立横浜立野高校に進学しました。顧問だった杉田博先生 (故人)は、この県立高校を何度もインターハイ出場に導いた優れた指導者でした。いつか教員として母校に戻り、杉田先生の築いたバドミントン部の伝統を引き継ぎたい。それが高校の教員を目指した最大の理由でした。昭和 52(1977)年 4 月に明治大学の文学部英米文学科に進学し、英語教員を目指しながらバドミントンを続けました。大学を卒業し、昭和 56(1981)年 4 月に神奈川県内の県立高校で英語教員となりましたが、母校に赴任することはかないませんでした。
昭和 57(1982)年の国体では神奈川県の代表に選ばれましたが、プレイヤーとしての限界を感じ、ラケットを置きました。これから高校でバドミントンの指導者として人生を歩むのであれば、英語教員としてもプロになりたい。行けるところまで行ってみよう。バドミントンで常に上を目指してきたので、そう思ったのかもしれません。
英語の読み・書きを教えるのは問題ありませんでしたが、聞く・話すについてはまったく自信がありませんでした。文部省(現・文部科学省)は当時、英会話の授業を高校英語の学習指導要領に入れる方針を打ち出していました。きちんと勉強し直さないと、恥ずかしくて英会話の授業などできません。
英語科の教員でも英語を話せないのは当たり前の時代でしたが、自分はそうなりたくない。そう思うと、居ても立ってもいられませんでした。英語教授法(TESOL)の修士号を取得することを決め、高校の教員を退職し、3 年間の教員生活でためたお金をはたいて、アメリカのニューヨーク大学院へ留学しました。昭和 59(1984)年 7 月、26 歳のときです。ニューヨークは移民の街なので、英語を第一言語としない外国人に英語を教え、社会に溶け込ませる必要性から英語教授法が発達していました。それがニューヨーク大学院を選んだ理由です。