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現地で生活し始めると、英語がまったく通じません。タクシーの運転手に行き先を伝えようと地名を何度発音しても通じなくて、メモを見せて説明する。運転手の発音を聞いて、アクセントが違っていたことに気付く。英語は発音よりもアクセントをどこに強く打つかが大事だと分かりました。現地に行ってみないと分からないことがある。面白くなりました。
英語で恥ずかしい思いをした経験は数え切れません。英語の読み・書きは現地の学生とも変わらないくらいできるけれど、聞く・話す能力はアメリカ人の子ども以下だと認めて、開き直りました。実力を伸ばすには、自分の位置を知る必要がある。これもバドミントンから学んだことですね。開き直ってしまうと、聞く・話す能力はどんどん伸びていきました。
アメリカで「英語を教えること」とは発話によるコミュニケーションを教えることであり、まさに私が学びたかったことです。やりたいことができて、毎日、授業に出るのが楽しかった。今思えば、あの時、決断して本当によかったと思います。修士号を取得して昭和 61(1986)年 8 月に日本に帰国しました。
帰国後の約 1 年間、神奈川県立住吉高校で臨任教員を務めながら、神奈川県の教員採用試験を受け直し、昭和 63(1988)年 4 月からは正式な教員として川崎の高校に赴任する辞令を受けました。しかし、当時はまだ高校の英語には英会話の授業がありません。学習指導要領では英会話の授業が設けられていましたが、実施するかどうかの選択は各高校の判断に任されています。しかし、教えられる教員がいないので、英会話の授業を実施する高校などないのが実情でした。
ニューヨークで学んだことが生かせないのであれば、高校の教員を続ける意味はない。それと、バドミントンを指導したかったので、ふたたび母校への赴任を希望しましたが通らなかった。「もう、いい」と思い、県立高校の採用を辞退しました。
英会話学校や専門学校で教員の職を探していたときに出合ったのが、読売新聞の片隅で見つけた神田外語学院の教員募集の広告です。すぐに連絡をして東京・神田にある学院の教育部を訪れました。神田外語学院はラジオ講座のスポンサーをしていたので名前は知っていましたが、それぐらいの認識でした。
対応してくれたのは当時、副学院長を務めていたアントン・グディングス先生でした。トップがアメリカ人で、英語で採用面接をする。専門学校でありながらアカデミックな雰囲気がして、アメリカの学校に近いという印象を持ちました。採用試験を受けたその日のうちに合格の連絡を受けました。