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50th Anniversary -Interviews-
大学時代もアメリカ文学は読み続けていました。ヘミングウェイ、フォークナー、ヘンリー・ミラー、ノーマン・メイラー……。いつかアメリカの大地に立ち、彼らの描く世界の背景にある文化や国民性、社会の実情に直接、触れて、身体で理解してみたいと思うようになったんです。
出版社や広告代理店でアルバイトをしながら、5年間で100万円を貯めました。大卒の初任給が2万5000円だった時代です。3畳の部屋で食べるものも切り詰めて、必死にお金を貯めました。そして、昭和44(1969)年5月、28歳のときに、横浜の大桟橋から客船に乗ってサンフランシスコに向けて出航しました。
サンフランシスコに着いて驚いたのは、アメリカと日本の経済格差です。ハンバーガーを頼むとコーヒー付きで1ドルだった。360円あれば日本では彼女を連れてとんかつ屋に行ってヒレカツ定食を食べられましたよ。
仕事が見つからないから、今度はロサンゼルスに行った。それでも仕事はない。このまま帰るのは癪だから、グレイハウンド・バスでアメリカ全土を旅した。時にはヒッチハイクをして、バスターミナルで寝た。放浪の貧乏旅行ですよ。西海岸から南部へ。人種差別もずいぶんと受けました。公民権運動の真っ最中です。東海岸と内陸部をジグザクに行き来しながら北上して、ニューヨークを目指しました。
ニューヨークに到着したとき、ポケットには70ドルしか残っていませんでしたが、それから1年間いました。色んな仕事をしましたね。オーディオメーカーの技術者の通訳、コロンビア大学に来る日本人の研究者の案内、JTBの支社の仕事など。ニューヨーク大学で聴講もしました。でも、面白くない。結局、日本でも、アメリカでも、大学という場所には縁がなかった。
つまらないから、大学には行かず、ブルックリンなどで肉体労働ばかりしていました。僕はアフロアメリカンやプエルトリカンと友だちになろうと思った。“Hi Brother!”“Amigo!”と呼び合う仲になれば、彼らの居住区であるゲットー(Ghetto)にも出入りできるからです。
彼らの中にはヴェトナム戦争の帰還兵が多くいました。海兵隊は “Kill, kill, kill” を合い言葉にヴェトコンと思えば殺しまくっていた。国のために戦い、勲章をもらっても、アメリカに帰ってくると殺人者扱いです。僕は、強靭な肉体に刺青を描く彼らから悲哀や虚脱感を感じていました。彼らが吐く口汚いスラングは、社会への憤りというよりも、疎外された者の心の叫びのように思えました。(2/15)