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50th Anniversary -Interviews-
話は少し遡りますが、私は学院が右肩上がりに成長していくなかで、昭和55(1980)年に佐野学園の職員になりました。それまでは講師の立場で、カリキュラムをああしたい、こうしたいと提案していました。でも、講師というものはコストパフォーマンスを考えないから、スーパーバイザーという立場で提案しても、結局は経営サイドに判断を委ねるしかありません。悔しいですよ。経営サイドになれば、カリキュラムを動かせる。そう思ったんです。ただ、その決断は物書きとしての人生を諦める決断でもありました。
職員になってからは、学生部に配属され、少しでも学生たちのためになる学校にしようと、夏休みを返上して、学生のサークル規程も整えました。あとは海外研修の改革です。旅行代理店任せだった海外研修をほとんど自前でやるようにして、内容を充実させ、コストも大幅に削減しました。
神田外語大学が昭和62(1987)年に開学した後、理事長に就任したばかりの佐野隆治会長から企画室の勤務に任命され、本館近くにある電建ビルの1室を与えられました。ついに神田外語学院の英語教育カリキュラムの改革に着手する時が訪れ、その現場の責任者を任されたのです。
佐野会長から下されたミッションは、「教育部門、事務部門、コンピュータや英語の教育、神田外語学院が内包するすべての要素を再構築し、教育効果を異次元まで押し上げる教授法と組織を作り上げよ」というものでした。その教育システムを開発できれば、神田外語学院は社会や企業に貢献できる人財を輩出し、広い分野で企業と提携できると佐野会長は見通していたのです。
まずは教員をすべて集めてブレインストーミングを行いました。すべての授業を見学して、それぞれの評価すべき点と改善すべき点を記録していきました。そして、平成2(1990)年に教育改革委員会を立ち上げたのです。英語教育プロジェクト、組織プロジェクト、職業科目専門プロジェクトなどのプロジェクトを立ち上げ、その下に12のフォーカスグループを作りました。総勢60名の専任教員がそれぞれのフォーカスグループに参加し、資料を集め、さまざまなカリキュラムやシラバスの提案を行っていきました。(8/15)