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50th Anniversary -Interviews-
僕が教員の職を得た昭和45(1970)年当時、神田外語学院は都内でもすでに最大規模の英会話学校だったと思います。他に社会人を対象にした1クラス数人の学校はあったけれど、神田外語のように大きな学校というのはありませんでしたね。
学院には当時、「キフルーフ」という看板授業がありました。各部屋にはテレビモニターがあり、マンガのキャラクターが会話する映像が放映されます。その流れに沿って英会話を覚えるのです。自前の英会話テキストもありました。コンピュータによる英会話の練習(CAI:Computer-Assisted Instruction)、LL教室での発音練習などもあり、独自の英語教授法を総合して、「KIFLメソッド」と呼ぶようになっていました。
僕は最初夜間コースの教員をしていました。当時は夜間のほうが学生が多かった。1クラス54名。週3日コースと2日コースがあり、3日コースは夜の6時から8時で、2日コースは6時から9時。そのクラスがたくさんあった。当時は、ミシガンメソッドに基づくパターンプラクティスで繰り返し声に出して、文法も表現方法も覚えるのが主流だったから54名でも充分に授業ができました。教員は “Repeat after me.” と言って、大合唱させればよいのですから。ただ、体力は要りましたね。
翌年の昭和46(1971)年には昼間部に移りました。本館が出来てまだ2年目です。その頃は、どのクラスも4クラスほどしかなかった。それがあっという間に増えていった。英会話本科なんてA、B、Cの3クラスだったのが、Zまでできた。学生数は昼間が3600人、夜間が3000人という時代に向かっていきました。昼休みに学生たちが一斉に階段を降りると、満員電車のような状態になっていましたね。
昭和40年代半ばから昭和50年代後半まで、学生数が伸びていったのは、北米やイギリスからネイティブ教員をリクルートしていたからです。僕が働き始めた当時は、欧米系の外国人教員は2人ぐらいしかいませんでした。あとは日系の外国人や在日の韓国人で英語がうまい人が教えていました。
佐野公一先生はカナダやアメリカに行き、教員を採用していたし、その仕事は後の学院長、アントン・グディングス先生が引き継いでいった。多い時にはネイティブの教員が専任だけで100名、教員全体では250名がいたんじゃないかな。(5/15)